孫子の兵法

戦わずして勝つ不敗の法則
「孫子の兵法」中国の春秋時代(今から2500年前)に書かれた不変の兵法書

孫子の兵法とは?

指導者や成功者にとって必読書、古代中国の春秋時代(紀元前770年~403年)今から約2500年前の時代に呉の国の軍師であり思想家でもある孫武が著した書
春秋時代中国は戦争の歴史の中からどのようにすれば勝利するのか、また負けないようにするにはどうすればいいのか孫子の兵法は先人の教えと経験を通して導き出された指南書でもあります。
中国の春秋時代は大小120を超える国々が存在し、常に戦が起きている時代であった
孫子の兵法を著した孫武の生涯どのような生い立ちでどういう風に活躍したのか詳しくは謎が多い

孫子の作者は?

長年「孫子の兵法」を書いたのは孫武なのか孫臏なのか、司馬遷の史記にもどちらなのか正確には書いておらず詳細は不明でしたが、1972年4月中国山東省臨沂県の銀雀山の前漢時代の古墳が偶然にも建設工事によって発見され、白骨化の死体や陶器や貨幣、漆器などが見つかりました。

その中に大量の竹簡も見つかり「孫子兵法」233枚、「孫臏兵法」222枚「六韜」136枚「尉繚子」72枚「守法守令等十三篇」224枚「晏子」103枚も副葬され竹簡の孫子は現在の十三篇とほぼ対応する内容になっており、銀雀山発掘の竹簡「孫臏兵法」には孫臏と、斉の威王や斉の田忌将軍とのやりとりが記され、「陳忌問塁篇」に孫武の兵法が「孫氏」の家系に代々継承されてきたことが記されていたので孫子の兵法は「孫武」が作者ということが有力であるとされました。

孫子兵法の名言解説

古来からの戦略書でもある名著「孫子の兵法」は
2500年前に書かれた現代でも多くの人が読み継がれている戦略書。
『風林火山』「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し」という言葉は誰でも聞き覚えのある名言ですが、孫子の兵法にある軍争篇の言葉を甲斐国の戦国武将である武田信玄が戦さに出陣する時に旗印として引用したことでも大変有名です。『彼を知り己を知れば百戦危うからず』『凡そ戦いは正を以て合い奇を以て勝つ』『百戦百勝は善の善なるものに非(あら)ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり』『兵は拙速を聞くも未だ巧久しきを睹ざるなり』…一度は耳にした名言もあるのではないでしょうか。

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ビジネスに学ぶ

ビジネスに役立つ名言をわかりやく解説、成功している経営者、スポーツ選手、政治家など多くは孫子の兵法を活用しています。
ソフトバンクの孫正義氏、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏、元アメリカ合衆国国務長官のコリン・パウエル氏をはじめ著名な方の多くは孫子の兵法を参考としています。
中国の三国志の魏の国の武将であた曹操は孫子の兵法の注釈書を残したといわれており、中華人民共和国の政治家で思想家、軍事戦略家で当時の最高指導者であった毛沢東も孫子の兵法を参考にし、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世は第一次世界大戦のドイツ軍が敗北後に20年前に孫子の兵法の存在を知っていたら戦争は起こさなかったのにと嘆いていたといわれており、日本国内の成功者はもとより世界各国の指導者や成功者に愛され親しまれている孫子の兵法

孫武の生涯

孫子の兵法を著した孫武の生涯どのような生い立ちでどういう風に活躍したのか詳しくは謎が多いのですが、司馬遷の書いた歴史書「史記」の「孫子・呉起列伝第五」に若干のエピソードが書いています。
時は紀元前512年呉の国王である闔閭(こうりょ)が斉の国から呼んできた孫武とはじめて謁見した時に「先生の書かれた兵法書十三篇を読ませてもらったが、とても素晴らしい内容であったので是非とも我が軍隊を指揮をお願いできないでしょうか」
孫武が了承すると「宮廷にいる女で先ずは試してくれないか」と呉王闔閭が言った。そこで孫武は宮廷にいる官女たち180人を2つのグループに分けてた。そこで孫武は2グループの隊長には王様が寵愛している2人の女性を任命したいと願いでる。
呉王闔閭は了承すると孫武は2人の隊長に「太鼓を鳴らすのでその合図とともに前と言えば前を、右と言えば右側を、左と言えば左側を、背と言えば後ろを向くように」と孫武は同じことを5度繰り返し、刑罰に使用する斧を手に持ち号令をかけた。
そうすると宮廷の美女たちはクスクスと笑いだし、調練をする状態ではなかった。そうすると呉王闔閭に「これは将たる私が命令を理解させることができなかったので私の責任でございます」といい、さらに同じ調練を何度か繰り返したが一向に宮廷の美女たちは変わる気配がなく笑い転げている様子です。
孫武は「先ほどは理解させなかった私の落ち度として認めるが今度は違う、皆が命令通り動かないのは隊長の責任にある。だから隊長を処刑とする」この言葉に呉王闔閭は「待ってくれそこまでしなくてもいいのではないか、その女たちは私にとって大事である」そうすると孫武は「将が戦さいる時は君命でも受けることができない時があります。」といい、隊長の2人を斧でその場で処刑した。そこから調練の続きを行うと一糸乱れぬ動きで調練を終えたとの逸話が記されています。