豊臣秀吉に学ぶビジネス孫子の兵法No,15(歴史篇)

ビジネスに学ぶ孫子の兵法


足軽から天下人になった豊臣秀吉

豊臣秀吉の歴史
1537年(天文6年)3月17日尾張の百姓の子として生まれる

1551〜1554年今川義元の家臣松下氏に仕える

1556年(弘治2年)織田信長に仕官し、次々と戦功をあげ知恵と工夫で出世していく

1566年(永禄9年)9月24日信長の美濃攻めに参加し敵前に砦を築く(墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)

1573年(天正元年)8月27日近江小谷城攻めに参加し、守りの手薄な砦を攻め本丸を孤立させ、浅井長政からの勝利に貢献する 功績を認められその後、北近江十二万石を任される

1574年(天正2年)長浜城を築き一城の主人になる

1577年(天正5年)8月8日加賀に出兵、上杉謙信との戦い、信長軍の総大将は柴田勝家、秀吉は勝家の部隊で戦うことになりますが、勝家の正面突破の作戦に異議を唱えるも却下され独断で戦線を離れ長浜に帰ったがその後、勝家は上杉軍に完敗する 軍規違反のため長浜城で二ヶ月謹慎、切腹は免れないと思われたが中国地方を平定の恩情で済んだ 半月で播磨を平定する 

1582年(天正10年)6月2日本能寺の変で明智光秀の謀叛により織田信長が死去、毛利勢と休戦協定を結ぶ

1582年(天正10年)6月13日光秀を討ち亡き信長の後をついで天下統一を目指す 清洲城に柴田勝家から呼び出され領地を返すよう命令される 1582年(天正10年)6月27日清洲城にて信長の重臣たちによる後継者について話された 柴田勝家は信長の三男・信孝を推薦、秀吉は長男・信忠の嫡男の三法師を推薦、丹羽長秀は秀吉の案を支持し、後継者は三法師に決まる 勝家の養子・勝豊に長浜を譲ることになる

1582年(天正10年)7月1日三法師を信長の世継ぎとして披露する 柴田勝家は信長の妹・お市と結婚

1582年(天正10年)12月9日 勝家に譲った長浜城を包囲し、勝豊は明け渡す

1583年(天正11年)2月28日勝家軍3万が越前を出陣 秀吉は北国街道に柵を作り封鎖し、山頂に砦を築く

1583年(天正11年)4月5日勝家が正面突破を図るも秀吉軍は鉄砲で応戦、1ヶ月対峙する
4月上旬、美濃で信長の三男・信孝が挙兵する
4月17日秀吉軍僅かの兵を賤ヶ岳に残し2万の軍勢で美濃へ進軍する
4月20日勝家軍が攻撃開始、知らせを聞いた秀吉は大垣から賤ヶ岳に戻る 自分がかつての所領であった北近江におびき寄せ地の利を生かす 美濃へ行き、勝家をおびき寄せる
4月21日賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を敗る

豊臣秀吉に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『三に曰く地…地とは、高下・広狭・遠近・険易・死生なり』(孫子の兵法 始計篇)


1584年(天正12年)3月小牧長久手の戦い 家康は高地に布陣、秀吉軍は迂闊に攻撃ができない 4月6日池田隊が岡崎城へ攻撃するも家康が早くに情報を得て先に待ち伏せし、池田隊は壊滅し池田恒興も討ち取られる

1584年(天正12年)秀吉、大坂城に入城し、名を羽柴秀吉から豊臣秀吉と改める

1585年(天正13年)豊臣秀吉、朝廷に働きかけ関白に任ぜられる 秀吉は妹と母親を家康に人質に差し出す

1585年(天正13年)領土争いを禁じる命令を全国に発する

1586年(天正14年)家康は秀吉の臣下となる 九州の島津氏、四国の長曾我部氏を平定 残るは関東の北条氏、東北伊達氏 上杉謙信をも退けた難攻不落の小田原城 北条氏は秀吉に対抗する為に徳川氏、伊達氏と同盟を結ぶ

1586年(天正14年)11月北条氏に従うか従わないか話し合い 氏政は徹底抗戦を主張する 15〜70才までの領民を小田原城に集め秀吉の攻撃に備える

1588年(天正16年)8月北条氏規(ほうじょううじのり)を上洛させる

1589年(天正17年)北条氏が真田氏の名胡桃城(なぐるみじょう)を強奪する 秀吉は真田氏の訴えにより北条氏に宣戦布告状を送る

1589年(天正17年)12月徳川家康、前田利家ら諸大名を招集し軍議を開く

1590年(天正18年)2月小田原に向け家康、利家を先発隊として22万人の軍勢で進軍する 北条氏も軍議を開き籠城作戦を結構、周囲の兵糧を城内に集め、秀吉軍に食糧とさせない為に田畑を焼き払いました。

1590年(天正18年)3月19日箱根の山中城の兵4千人に対し秀吉軍7万人で包囲29日攻撃を開始し半日で落城する 4月6日5万7千人の小田原城
に対し10万人で包囲する 秀吉は笠懸山に陣を取る 6万人を動員して城を建築 6月5日伊達政宗を秀吉に忠誠を誓う

1590年(天正18年)7月5日・豊臣秀吉、北条氏を降伏させて天下統一する

豊臣秀吉に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『先ず勝つ可(べ)からざるを為(な)して、以て敵の勝つ可(べ)きを待つ』(孫子の兵法 形篇)
上杉謙信も落城することができず難攻不落といわれた小田原城、秀吉も圧倒的な兵力、兵糧を以って戦さに挑んだ


・太閤検地を行い正確で計画的な年貢の徴収が可能となった ・刀狩り令を発布、兵農分離によって武士は農業をやめ、一年中戦さに出陣することが可能となり、農民は農業に専念し農繁期に戦さに出陣することなく食糧も安定する

1598年9月18日(慶長3年8月18日)豊臣秀吉死去

*あとがき
信長も信玄も家康も代々大名の家系で家督を継いでいますが、秀吉は尾張那古野の百姓の出身で足軽から天下統一を成し遂げた成り上がり、現在のビジネスマンにおいても学ぶべきものは大いにあります。
今回は豊臣秀吉に学ぶビジネスの孫子の兵法でした。

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