徳川家康に学ぶビジネス孫子の兵法No,11(歴史篇)
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人は戦国三英傑として歴史に名を残した武将です。
信長は天下統一の礎を築き、秀吉は農民から天下統一を成し遂げたことで人気があるのに対し、家康は地味なイメージが定着しているのか、先の二人と比べると今ひとつ人気面では劣っているかもしれませんが徳川幕府成立後260年の安泰政権を築き上げました。
私も最初は大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家を滅ぼしたことで良い印象はもっていなかったのですが、家康の事を調べていくうちにそれまで倒すか倒されるかという戦乱の世の中から260年もの徳川幕府を築き上げたという事実から器の大きさを実感しました。
今回は徳川家康に学ぶビジネスの孫子の兵法をお伝えします。
徳川家康は1542年(天文11年)父親・松平広忠と母親・於大の方との間に生まれ幼名・竹千代といいます。
『過酷な運命』
三河藩主・松平家は西に織田家、東に大大名の今川家に挟まれ弱小の国でした。
広忠は今川家の傘下に入るも母の於大の方一族が織田家についた為に離縁する
天文18年(1549年)に、父・広忠が父は家臣の裏切りにより殺され、松平家の嫡男家康は8才の時に今川家の人質になり駿府で暮らす。
母方の祖母である源応尼、今川家の軍師太原雪斎(たいげんせっさい)から兵法、儒学、易学、医学を学ぶ
今川義元から名前の一字をもらい一字拝領し、次郎三郎元信と名乗ります(ただし、その数年後には元康と改名元服名を松平元信とする
『徳川四天王』
徳川家康には「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と謳われた本多忠勝(平八)、家康の右腕といわれ、若かりし頃最も頼りにした武将の酒井忠次、榊原康政、井伊直政の徳川四天王と呼ばれる名将をはじめ主君の為なら命を捧げてもかまわないという武将がたくさんいました。
武田軍に仕えていた武将たちも礼を以って迎えたのでその後家康の為に仕えることとなる
関ヶ原の戦いでも1万石以上の大名たちに214通もの手紙を送っており巧みに味方につけ石田三成を破っています。
いくら当主の器が大きくても何万人もの兵を束ねる将が重要となってくる
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いにおいて家康は今川軍の先鋒隊として出陣、味方の城に兵糧を運搬する任務でしたが、しかし織田軍の砦に囲まれて近づくことも出来ませんでした。
そこで家康は囮部隊を織田軍の砦の一つを攻め、残りの砦にいる兵士が応援に来た時に届けることにしたのです。
餌を与えて敵を罠にかける、囮部隊を餌、つまり孫子の兵法でいう「利」にして織田軍の砦の一つを攻め、他の砦から応援がくることを見越してその隙に他の砦が手薄になっているところをすり抜け兵糧を届けたのでした。
また、大将の今川義元が織田軍に討たれ、味方の軍は総崩れになり、周りは敵軍だらけとなり敵地から逃げ出すことも出来ない状況です。
そんな時も家康は捕虜にした武将を先頭に立て、堂々と敵がいる中を退却していきました。
囲まれた場所では謀りごとで切り抜ける
甲州征伐において嫡男の信勝や北条夫人とともに自害した武田勝頼、信長は晒し首として嘲笑っていた。
しかし家康は勝頼の首を譲り受け菩提寺として景徳院を建て、信勝や北条夫人と共に菩提を祭り供養しました。
これには武田家の家臣たちも感動し千人を超える家臣が家康に仕えました。
『膨大な知識』
戦国一の読書家で家康の言葉に「道理を諭ししらんとならば書籍よりほかにはなし仁政の第一なり」(東照宮御実紀より)孫子の兵法をはじめあらゆる兵法や易学を駆使し勝利を重ね、儒学、老荘思想を以って徳を修めた。
新しい領地を得ると「政は人心あを得るにあり」(東照宮御実紀より)徳によって政治を行い。
前の領主が作った掟は変えず税を安くし領民たちの負担を軽減することにしたのです。
その後、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開き、戦乱を治め徳川政権は260年続く天下泰平の世を築くことになったのです。
歴史を振り返ると秀頼では天下を治めることはできなかったのでしょう。戦乱の世を沈める為に徳川家康は神に選ばれた様な気もします。
幼き頃人質になった時から太原雪斎から孫子を始め様々な兵法から儒学、老荘、医学、易学を学び、かつての宿敵武田軍の家臣を引き入れ武田流の戦さを学び取り入れ、また天下を統一しても帝王学を学び実践し続け
桶狭間の戦いで大将の今川義元が討ち取られ敵軍からの奇策での生還、三方ヶ原の戦いでの死をも覚悟した完膚無きまでの敗北、関ヶ原の戦いでのまさかの真田幸村からの襲撃などあらゆる困難から立ち上がり征夷大将軍となり260年の徳川幕府を築いたのは持って生まれた運にプラスして常に研鑽し続けた結果でしょう。信長や秀吉と比べると人気は今ひとつかもしれませんが、大いにビジネスで学ぶことがあります。
今回は徳川家康に学ぶビジネスの孫子の兵法でした。