黒田官兵衛(如水)に学ぶビジネス孫子の兵法No,14(歴史篇)

ビジネスに学ぶ孫子の兵法


戦国軍師No.1といわれ、信長、秀吉、家康からも絶賛され、秀吉の天下統一に大きく貢献した黒田官兵衛

特に秀吉からは「官兵衛の謀(はかりごと)凡人の及ぶところにあらず」「その才ただ人にあらず」「秀吉の次に天下に一番近い男」として当初は二人三脚で天下統一に貢献していましたが、いつしか恐れられ九州に追いやられるようになりました。

2014年のNHK大河ドラマで V6の岡田准一が「軍師官兵衛」の主人公を演じたことでも有名になりました。

ダウタウンの松本人志さんも黒田官兵衛の大ファンで番組でスゴさを熱く語っていました。

今回は戦国最強軍師、黒田官兵衛のビジネスに学ぶ孫子の兵法を送ります。

『官兵衛の歴史』
1546年播磨国姫路城の城主黒田職隆の嫡男として生まれる

播磨国の小寺則職・政職父子に仕える

西には毛利輝元、東には織田信長が迫っておりどちらかに属せざるを得ない状況、他の播磨の豪族たちは毛利方につくことを望んでいましたが、官兵衛の信長が天下を取ると進言し、小寺氏は信長の配下になることを決意する

1575年(天正3年)播磨、中国地方を目指す織田信長に謁見する

信長は播磨の国の情勢に詳しいことと官兵衛の類い希なる才能に感嘆し、大切にしていた愛刀の圧切長谷部(へしきりはせべ)を与える

1577年(天正5年)息子の長政を信長に人質に出す

1575年5月信長のもとにいった官兵衛に毛利輝元は激怒し輝元軍5千で播磨を攻め入る

官兵衛率いる軍勢は5百なのでとても勝ち目はありません。

官兵衛は領民に旗を持たせ待機させ、奇襲攻撃をかけた後に領民が旗を掲げ信長軍の援軍が来たと見せかけ見事に輝元軍は撤退することになる

信長もこの勝利に「官兵衛の敵の攻撃を崩して討ち取る様は神妙である」と感嘆しています。

1577年(天正5年)信長は総大将・羽柴秀吉として5千の軍勢で播磨に進軍する

秀吉が攻め入る前に播磨の豪族たちに信長方につくように説得にまわり見事に殆どの豪族たちが官兵衛の説得に応じた功績によりわずか2ヶ月で播磨平定を成し遂げた。

毛利輝元は信長に寝返った播磨の豪族に激怒し5万8千の軍を播磨へ、再び毛利氏に寝返ることになり、秀吉軍は孤立無援になる

1578年(天正6年)官兵衛は死を覚悟し寝返った豪族がいる有岡城に説得に向かうも捕らえられ1年投獄

信長はいつまでたっても戻らない官兵衛に裏切られたと思い人質の息子・長政の殺害を命令するも秀吉は信長の命令に背き長政を匿う

1579年(天正7年)信長軍の援軍により有岡城落城で救出される

この功績により信長から播磨1万石を与えられる

1582年播磨平定後、毛利輝元の備中に進軍する

1582年3月高松城攻め、城主・清水宗治は降伏を拒否し籠城、周囲を沼地に囲まれ攻め難い城なので秀吉は水攻めを決行

川を堰き止めるために、堤防工事を僅か半月ほどで完成させたのですが、梅雨時期で思ったよりも水かさを増し堰き止めることができない状況です

そこで官兵衛は川下から大きな石を載せた30艘の舟を一斉に底を破り舟を沈め、2千の兵で土嚢を積み上げ堰き止めることに成功、高松城は周囲を水に囲まれ孤立する

黒田官兵衛に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『水を以て攻を佐くる者は強なり』(孫子の兵法 火攻篇)

1582年(天正10年)6月2日本能寺の変で信長自害する

号泣する秀吉に官兵衛は「運が回ってきました。これから秀吉様が天下をお取りください。」

毛利軍に信長の死を気づかれないうちに和睦に入る、領土を当初要求していた備中・備後・美作・伯耆・出雲の5カ国から備後・出雲を除いた備中・美作・伯耆の3カ国とし、切腹は高松城主・清水宗治のみと条件を譲歩し和睦する

1582年(天正10年)6月3、4日中国大返し、明智光秀を討つために6日間で備中から京に向かう

1582年(天正10年)6月13日山崎の戦い、和睦の際に借りてきた毛利軍の旗を掲げ元輝の軍勢も加わったように見せかけ明智光秀を破る

黒田官兵衛に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『孫子の兵法のビジネス 兵は詭道なり』(孫子の兵法 始計篇)


この頃から秀吉は官兵衛の才能を恐れ、四国平定にも恩賞を与えず

1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いにて柴田勝家を敗る

1585年(天正13年)秀吉、関白に任命

1586年(天正14年)7月官兵衛は九州平定に先発隊として向かう

この時にも官兵衛の奇策が功を奏し、九州の大名に降伏すれば本領の安堵の約束はするが他の大名に話すと攻めると脅し見事に秀吉到着後1カ月で九州を平定する

黒田官兵衛に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』(孫子の兵法 謀攻篇)

1587年(天正15年)6月
秀吉からの恩賞は
小早川隆景は筑前52万石
佐々成政は肥後50万石
一番の功労者である黒田官兵衛には豊前18万石とした。

1588年(天正16年)豊前国中津城着手する。京の情報を船で3日で届くよう中津川の河口を巧みに利用し堀に海水を引いています。

黒田官兵衛に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『地とは、高下・広狭・遠近・険易・死生なり』(孫子の兵法 始計篇)

1589年(天正17年)5月官兵衛は家督を嫡男・長政に譲り自身は豊前にて隠居することにした

この頃から名前を如水に改名する

1590年(天正18年)小田原城征伐にて北条氏が100日間籠城し、秀吉軍は包囲し苦戦する中、官兵衛に北条氏が降伏するように交渉するよう呼び出される

籠城すること百日、北条殿の武名は十分に天下に届いた、秀吉と和睦し北条家百年を守るのが大義ではないかと諭す

1590年(天正18年)7月5日北条氏降伏する豊臣秀吉が実質天下統一する

秀吉からこの時も恩賞はなかったのですが、敵方の北条氏直から名刀・日光一文字を贈られる

1598年(慶長3年)8月18日豊臣秀吉が死去する

1600年(慶長5年)11月12日
徳川家康から停戦命令が発せられる

1604年3月20日京都伏見で死去

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