楠木正成に学ぶビジネス孫子の兵法No,16(歴史篇)

ビジネスに学ぶ孫子の兵法


楠木正成の戦さはまさしく孫子の兵法

武家でも公家でもない一土豪であった楠木正成、型破りな戦法により鎌倉幕府を倒すことに成功、最期は非業の死を遂げることになった楠木正成に学ぶ孫子の兵法のビジネス歴史篇をおくります。

『楠木正成の出生』
正確な出自は不明だか生まれたのは永仁2年(1294年)との説がある
幼名は多聞丸といい、次に兵衛尉から正成に改名する

楠木家の家紋は菊水、後醍醐天皇から菊の花を盃に浮かべて「菊というのは千年後でも薫る。其方の名前も千年経っても残るように」と願いが込められています。

源頼朝がつくった鎌倉幕府は北条高時の時代には政治は乱れ、世の中は重税に苦しむようになる

また、後醍醐天皇の子孫に皇位継承を否定されたことに対し不満を募らせ、倒幕することを計画、「正中の変」1324年10月(正中元年)「元弘の変」(げんこうのへん・1331年〜1333年)

後醍醐天皇の倒幕に楠木正成が参戦する為に謁見、その時にどうすれば勝てるのかとの問いに「武力に秀でた幕府軍に勝つには知謀をもって策略をめぐらせれば武力に勝つことができます」と進言

楠木正成に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『兵とは詭道なり』(孫子の兵法 始計篇)


1331年(元弘元年)9月河内国の赤坂城で僅か5百の軍で挙兵する

北条高時は数万の幕府軍で進軍、赤坂城を攻めるも城を目がけ登ってくる幕府軍に岩や丸太、熱湯や糞尿で撃退します。

楠木正成に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ』(孫子の兵法 勢篇)


1331年(元弘元年)9月河内国の赤坂城で僅か5百の軍で挙兵する

幕府軍は赤坂城に籠城する正成軍を兵糧攻めに、正成は城を燃やして自害したように思わせる

1332年(元弘2年)11月、正成軍は河内、和泉の守護を落とし、天王寺を占拠する。

幕府軍5百を天王寺にいる正成軍討伐に向かう、正成軍2千もいるので一気に攻撃との意見が出るのだが、正成は「良将は戦わずして勝つ」といい退ける

そして、正成軍は天王寺を撤退し、幕府軍が天王寺に入る

夜になると天王寺から見える山々にかがり火が何千何万と見える

幕府軍は正成軍が何万もいると思い込み四日後天王寺から撤退する

楠木正成は河内、和泉の農民に夜にかがり火をたくよう協力を要請し快く引き受けてくれたのだ

楠木正成に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』(孫子の兵法 謀攻篇)

1333年(元弘3年)2月幕府軍は8万の兵を正成討伐に向かわせ兵糧攻めに出る

正成軍は赤坂城に千人で籠城、正成軍ではなく幕府軍が兵糧不足に、正成は周囲の土豪や農民に幕府軍の兵糧運搬部隊を襲い、赤坂城に兵糧をわからないように届けるよう指示していたのです。

民衆の力があったからこそ兵糧不足にならずにすんだ、民と心を一つになったので幕府軍と戦うことができたのである

楠木正成に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『道とは、民をして上と意を同じゅうせ令(し)むる者なり』(孫子の兵法 始計篇)

 

1333年(元弘3年)5月足利高氏(尊氏)六波羅探題を攻撃

新田義貞、倒幕の為に挙兵し、北条高時の幕府軍を敗る

1333年(元弘3年)6月、隠岐島に流された後醍醐天皇が名和長年らによって京に戻る

建武の中興により天皇親政によって朝廷の政治を復権する

1335年(建武2年)11月

足利尊氏軍を敗り、尊氏は九州へ敗走する

後醍醐天皇に足利尊氏との和睦を忠言するも公家たちの反対もあり拒否される


湊川の戦い

1336年(建武3年)5月湊川の戦い
足利尊氏軍3万に対し正成軍7百

湊川の出陣にあたり正成は後醍醐天皇を京から比叡山に移り、尊氏軍が京に来たところで兵糧攻めにし、逃亡兵が出たところに北畠軍、新田義貞軍と正成軍で攻めればと献策するも坊門宰相清忠らの反対により退けられる

奇想天外な戦法を駆使して勝利してきた楠木正成もこの時ばかりは3万の敵軍で唯一勝利出来る案も退けられ死を覚悟して湊川に向かうことになる

戦いに行く道中、禅僧の明極楚俊(みんきそしゅん)のところに立ち寄り、心境を問う。
「そもさんか、生死の境」
明極楚俊は
「両頭截断(せつだん)せば、一剣天によりて寒(すさま)じ」
正成も明極楚俊に禅の境地で「落所は如何」
明極楚俊は「かぁーつ」
「ここである。己自身のすべてにだ。分別と迷いの心を飛び越え己自身に真を得よ」

正成は鎧をつけたまま立ちあがり何度も頭を下げ礼をいって、一点の曇りもない心で戦い向かうのである。

生きるか死ぬかなどは一切関係ない。武士として忠義を果たし、正々堂々と最後まで戦いきるのみ。

湊川での正成は、十三か所にもおよぶ傷を受けても、あきらめることなく、最後の最後まで戦い、最後は民家に駆け込み弟の正季と刺しちがえ見事に最後をしめくくった。

*あとがき
小が大を制する奇想天外な戦法は孫子の兵法をそのものですが、ビジネスとしても知謀を以てすればライバルに勝てることを教えています。
また、武士としての生き様は大楠公として幕末の志士たちから尊敬してやまないといわれています。ただ業績をあげるだけでなく生き方も楠公さんを見習いたいものです。
今回は楠木正成に学ぶビジネスの孫子の兵法でした。

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