織田信長に学ぶビジネス孫子の兵法No,13(歴史篇)

ビジネスに学ぶ孫子の兵法

天下統一の礎を築く信長

尾張一国から天下統一目前まで築きあげた戦国武将の織田信長、多くの方が尊敬する人物としてあげています。

ソフトバンクの孫正義氏もアメリカ留学中に本やテレビ、映画で信長に夢中になり、戦略計画の立て方を自身の経営、人生の計画の参考にしたのです。

生涯の戦さの戦績は68戦49勝15敗4分といわれており、負け戦さをいくつも経験していますが、信長の凄いところは勝てないと思うと早急に退却することです。

勝利に執着して戦況が不利な中で戦い自分が討ち取られれば天下布武の夢は果たすことはできません。

戦さに負けたという屈辱は残りますが、勇気を以て退却し、新たに立て直し次に勝利する事にかけています。

信長に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『勝兵は先ず勝ちて而(しか)る後に戦い』(孫子の兵法 形篇)

金ヶ崎の戦いでの退却、上杉謙信との戦いにおいても状況が不利と見るや残さず退却を決意しています。退却をする勇気も将としての資質であり、退却の決断を鈍らせたのが長篠の戦いにおける武田勝頼でしょう。

『信長の歴史』

尾張を治める小さな大名
1534年(天文3年)5月11日尾張国の織田信秀の三男として産声を上げる

大名の子供とは思えないような片袖をめくり縄を腰に巻き当時としては奇抜な恰好をし、世間からは大うつけ(からっぽ)と呼ばれていた。

天文20年(1551年)3月、信長18才の時に織田家の家督を継ぎ尾張の領主となる。

1568年(永禄11年)足利義昭を迎え信長上洛し、義昭を第十五代将軍に据え。

恩賞として信長に副将軍の地位を与えようと提案するも信長は拒否します。

『桶狭間の戦い』

1560年(永禄3年)5月19日
尾張の桶狭間にて四千の信長軍が兵の数では圧倒的に不利な中で2万5千の今川義元を破るという快挙を成し遂げました。

この戦さの勝利には今川軍に寝返った家臣を信長と通じているように仕向けた情報操作による策略、砦の攻撃に成功し油断して休息している今川義元の居所を伝え奇襲に成功した(諸説あり)という情報戦略と天の味方もあったのか偶然も重なり信長は今川義元を討ち取ることに成功します。

信長に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり』(孫子の兵法 用間篇)
『利な合わば而ち動き』(孫子の兵法 九地篇)
『兵は多益に非(あら)ざるも、武進(ぶしん)すること母(な)ければ、以て力を併せ敵を料(はか)るに足りて、人を取らんのみ』(孫子の兵法 行軍篇)


1563年(永禄6年)小牧山城を築城、それまでは土で城を土台にしていたのを信長が日本で初めて石垣、瓦、築石建物を用いて城を築きました。以前は安土城が石垣建築として最初と思われていましたが最近の発掘調査で小牧山城の方が古いことが発見されました。

信長に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり』(孫子の兵法 謀攻篇)

当時の人々は巨大な石垣の上にそびえ立つ城は脅威に思えたでしょう。小牧城に隣接する美濃の武将は戦意を喪失して信長に寝返ったともいわれています。まさに孫子の兵法でいう戦わずして勝つということですね。

1570年(元亀元年)6月『姉川の戦い』
朝倉浅井軍を敗る

1579年(天正7年)5月
安土城天主に移り住み、それまで先祖代々住んでいた本領を離れ武士達に安土山の麓の武家屋敷に住むように命じる

1581年(天正9年)6月
長宗我部元親に獲得した阿波の領地を三好氏に任せるよう命じる

『10年に及ぶ一向一揆』

大坂本願寺と10年に及ぶ抗争を繰り広げ数万人もの大虐殺をおこない、1580年(天正8年8月2日)ついに浄土真宗本願寺派第十一世宗主顕如は降伏(石山合戦終結)

大坂本願寺は村上水軍の援軍にて対抗し信長水軍を敗北に追い込みますが、敗因を分析して村上水軍に対抗するには船上での戦いに長けている者が必要ということで、志摩水軍を統率していた九鬼嘉隆を迎い入れます。

また、鉄で出来た船を作ればいいのではないかという誰もが決して思いつかないような奇抜なアイデアを考え、九鬼嘉隆とともに世界初の鉄船を作りあげる。

信長に学ぶ孫子の兵法、ビジネスで参考になる名言を解説
『戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ』(孫子の兵法 勢篇)

当時の技術で沈まない鉄船を作るのは容易ではありません。岐阜県関の関鍛治を総動員して薄い鉄板を製造したのです。

『長篠の戦い』信長・徳川家康連合軍で信玄亡き後に勝頼率いる武田軍を長篠、設楽が原にて破る

『本能寺の変』
1582年(天正10年)6月2日未明、家臣の明智光秀の謀反により信長自害、天下統一を目前にして(享年49才)無念の死を遂げたのです。

*あとがき
信長は戦さにおいていち早く他の大名よりも鉄砲を大量に取り入れ、当時の技術では妄想としか思えないような鉄でできた巨大船を作らせ、室町幕府の大名は権威や身分を重んじていましたが豊臣秀吉のように身分の低い者にも実力があれば登用し、楽市楽座を敢行し経済の発展を、関所の廃止令など斬新で奇抜なアイデアを駆使し尾張の一大名から天下に名を轟かしましたが、比叡山焼き討ち、一向一揆において女性や子供など多くの罪なき人も惨殺することで敵を多く作ることになり結果的に本能寺の変にて死に至るのですが、後世の戦国武将や現代の我々にも見習うべきところと反面教師にすべきところを教えてくれました。今回は織田信長に学ぶビジネスの孫子の兵法でした。

関連記事一覧