武田信玄に学ぶビジネス孫子の兵法No,12(歴史篇)

ビジネスに学ぶ孫子の兵法

風林火山の旗印を掲げた武田信玄

戦国屈指の最強軍団を作りあげた武田信玄、風林火山の旗印を掲げていたとして有名です。

この言葉は「孫氏」軍争篇第七の「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」から引用したものです。

「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉を残していますが、生涯にかけて家臣を敬い、領民を大切にしてきたからこそ甲斐の国は弱小から信長・家康も恐れる強国にのし上がりました。

今回は武田信玄に学ぶビジネス孫子の兵法を送ります。

信玄の生誕

信玄は、1521年(大永元年)11月3日甲斐国の積翠寺にて当主である武田信虎の嫡男として生まれる。

幼名を勝千代といい、1536年(天文5年)元服、十二代将軍足利義晴の一字を賜り名を晴信と称し後に入道し信玄と号する。

母親・大井の方の勧めで8歳の頃から長禅寺に住み込み、禅僧・岐秀元伯の元で「四書五経」「孫子」「呉子」等の学問や兵法を徹底的に学んだといわれています。

当時、甲斐の国は盆地ごとに大井氏、小山田氏、穴山氏など独自の勢力を築いており武田氏の勢力は弱かった。

信虎への忠誠心は薄く内紛が常に起きていました。

『初陣での勝利』

初陣(ういじん)は1536年(天文5年)父信虎とともに信州佐久への遠征に加わり海ノ口城での戦いで平賀源心軍を討ち取り勝利を飾る

『父信虎を追放』
信玄の父・信虎は当時、当主ではありましたが従わぬ者や反抗する者を情けなく成敗していました。

そんな情け容赦ない信虎を家臣たちは見切り甲斐の国の行く末を案じ1541年(天文10年)6月14日駿河の国に嫁いだ娘の元に会いに行った時に今川義元のもとに追放し、息子の信玄を甲斐国の当主にしたのです。

『初めての敗戦』

1948年天文17年上田原にて信濃の有力な豪族村上義清氏と戦い、敵を深追いし板垣信方、甘利虎泰子が戦死、信玄自身も傷を二箇所負い完敗に終わる

1551年(天文20年)5月
村上氏のもとに間者(スパイ)を派遣し敵の一部の者を武田軍に引き入れることに成功し、二度敗れた村上氏に復讐を果たす

孫子の兵法のビジネス・名言の解説
「五間倶に起こりて、其の道を知ること莫きは、是れを神紀と謂う」(孫子の兵法 用間篇)

信玄はあらゆる所に間者(スパイ)を送り情報収集を怠りませんでした。

『武田軍団24将』

鉄壁の結束力を誇っていたとして伝えられてきましたが、当初は烏合の衆のかたまりで、また若くして当主に担ぎあげられた為に家臣団はまとまりません。

勝手に領民から通行税を徴収したり、26か条におよぶ甲州法度を制定するも家臣たちは従いません。

そんなまとまらない家臣団を信玄は生涯悩み続けていたといわれています。
軍師・山本勘助の助言により戦さに勝つと直ぐに恩賞や領土を与えた。

そうすると戦さの度に、忠誠心の薄かった家臣たちも次第に信玄を敬うようになったのである

信玄家法

「家臣が病気になった時にはどんな事があっても見舞うこと」
「離反した場合、反省し心を入れ替えた者には過去を咎めず再びに召し抱えること」
「家臣の身を自分の喉の渇きのように思い潤し続けること」

孫子の兵法のビジネス・名言の解説
「卒を視ること愛子(あいし)の如し」(孫子の兵法 地形篇)

信玄は家臣たちを一致団結するために戦場に恩賞を持ち込んで直ぐに渡せるよう常に気を配っていました。


『三国同盟』
今川から嫡男・義信に嫁をもらい、娘・黄梅院を北条に嫁がせ、越後の上杉謙信に安心して出陣することができます。

今川義元が桶狭間の戦いにて織田信長に敗れると今川攻めを考え信玄は嫡男・義信に離縁するように説得するも反対し今川攻めも応じません。

今川家とは同盟関係だったこともあり家臣たちも賛成派と反対派に分かれた

反対派と義信が信玄追放を企だているとの情報を得て、信玄は義信を幽閉し、反対派の家臣80人あまりを処刑、追放の処分を下す

そこまでしても家臣たちの動乱は治らず、信玄は嫡男・義信を自害に追い込んだ。1567年(永禄10年)

1568年(永禄11年)12月駿河の今川軍を侵攻し勝利する

1570年(元亀元年)12月駿河に侵攻

1571年(元亀2年)1月3日深沢城を包囲し、金山衆を同行させ城内に穴を開け水を絶やしたり、城壁を壊すなどで見事に深沢城を攻略することに成功

将軍・足利義昭から
1572年(元亀3年)10月3日、2万5千の兵を引き連れ京の都を目指し甲斐の国を出発する

「三方ヶ原の戦いで家康軍に勝利」
1572年(元亀3年)12月22日

1573年(元亀4年)4月12日
武田信玄病に侵され享年53才でこの世を去ります

『信玄の国造り』

周囲を山々に囲まれた甲州盆地

水田が少なく米の生産をあげるには新田開発をしなければなりません。釜無川、御勅使川(みだいがわ)河川の治水が必要

甲斐の国は山から流れる水は雪解けの水で水流も多くで流れも急で

大雨や嵐など度々起こる洪水で堤防を決壊し田畑や人家に大きな被害を与える

信虎の時代は各豪族は自分の領土内で行っていたが、信玄は甲斐国の総延長距離50キロに及ぶ治水工事を計画し、家臣や豪族たちに役割分担し15年の歳月をかけて治水工事を実行した。

治水工事により耕地は3倍に増えることになり甲斐の国は豊かな国になる

甲斐には20以上の金山があり、当時どの豪族にも族していない金山衆を配下に治め、金山開発を進めて甲州金を発掘し甲斐の国の財政を潤しました。。

そして甲斐、信濃、駿河を治め百万石を超える大大名となり甲斐の国を強国に育て上げた。

武田信玄に学ぶビジネス孫子の兵法のまとめ

信玄は武将として当時戦国最強の武田軍団を作り上げるのに家臣たちの忠誠心を深くする為に心血を注ぎ、また領国経営としても金山開発で金の収入、20年におよぶ治水工事で穀物の安定供給により甲斐の国を強国にし民を豊かにした。

幼い頃から母親の影響から孫子の兵法をはじめ禅や儒教などあらゆる学問を学んだことから戦さに勝つだけではなく政治的にも国の経営者としても歴史に名を残す人物となったのでしょう。

今でも甲州に行くとあらゆる商品などに信玄の名を付けられ今の世でも信玄は甲州の人たちから慕われているのも頷けます。
今回は武田信玄に学ぶビジネス孫子の兵法でした。

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